せっかくのお通夜の法話が届かない

2026年5月13日(水)


昨日のブログで綴ったお通夜への参列ですが
実はもう一つ印象に残ったことがありました。
お通夜のあとのご法話がほぼ聞こえなかったことです。

最初の枕経でおつとめされた阿弥陀経にしても
引き続いてのお通夜でおつとめされた正信偈にしても
広い式場でしたがマイクを通して聞こえていました。

そしてお通夜のおつとめが一通り終わったあと
御文章の拝読に続いてお坊さんのご法話になったら
なぜかマイクでも声を拾いきれなくなったようでした。

お経や御文章はマイクを通して聞こえていたので
一生懸命に耳をそばだてて聴いていたのですが
ところどころ単語が聞き取れる程度だったんですね。

「こんなお話をされているのかな」と想像しながら
聞こえない部分を頭の中で補おうとしたのですが
あまりにまばら過ぎてほとんどつかみきれませんでした。

おそらく右手前方のご遺族には聞こえていたでしょうが
後方の一般会葬者の皆さんにはほとんど伝わって
なさそうだったので「もったいないなぁ…」と感じました。

大切な方を亡くされたご家族やご縁のあった方々へ
仏さまやお浄土のお話をされたり亡き方とのご縁や
お通夜の意味を伝える大事な時間にできるはずでしたから。

以前なら「お通夜とはこういうもの」という感覚が
地域や家庭の中で自然に共有されていたのかもしれません。
でも今はあまりご存知でない方の方が圧倒的多数です。

だからこそ、お通夜は何のためのどういう場であって
この場に集った方々は故人さまに何ができるのかを
丁寧に言葉で届けることがいまこそ大切だと思います。

亡き人を弔うということの意味が伝わらなくなったから
お通夜は必要ないという方向へ流れつつあるのでしょうし
お葬式も不要だという方向へつながっていくのかもしれません。

だからこそ、お坊さんが弔いの場で何をどう語るのか
そして、その言葉をその場に集う人にどう届けるのか
ということについて強く考えさせられたご縁でした。