これが最後の…と思って

2020年6月30日(火)

200630
先日来お経を読んでおつとめするときの丁寧さについて思惟していましたが
法友が昨日書いていた記事を見てモヤモヤしていた心に光が射しました。
ここに記して夏越しの六月晦日、今年前半の厄介事を祓うことにします。

法友は若松英輔さん『生きる哲学』の一節を引用して紹介していまして
「書く」を「読経」や「法要」に置き換えて戒める心得を述べていました。
なるほどと思って読み返していたとき引用された若松さんの冒頭文にドキッとしたのです。

 必死に書くとは、これが最後の一文だと思って書くことにほかならない。

おつとめときの丁寧さって「これが最後だと思っておつとめする」だと閃いたのです。
もしこのお経が最後となって命を終えたとして悔いが残らないおつとめだと言えるのか、ですね。
今の瞬間が常に最善の状況であれば間違いなく丁寧なおつとめができているでしょう。

そもそものきっかけは「早すぎる読経は丁寧ではない」という言葉に疑問を持ったことです。
もっとゆっくりおつとめしないと丁寧ではないということになるのであれば
遅ければ遅いほど丁寧になるということになるではないかと偏屈者は屁理屈を思うわけです。

ゆっくりでも心ここにあらずで頭の中は他のことが気になっているなら丁寧ではないし
お施主側の事情で頼まれる時には早い読経でも丁寧におつとめすることはできるので
おつとめで読経する速さと丁寧さを関係づけられるのは納得がいかなかったんですよね。

もう大丈夫です、速さ云々よりも頭の中や心の内のほうが丁寧さに結びつくと思えていれば
一期一会で「これが今の最善だ」と胸を張れるおつとめを努めて心がけるだけですから。
でも、これって、言うは易く行うは難しで極めて厳しいことなんですけどね。。。