話す身こそが教わる立場である

2017年10月11日(水)

171011
浄土系ではない他宗派からお檀家さまに入られた方の年回法要がございました。
ご参列の皆さまにお経本をお渡ししてご一緒におつとめしました。
おつとめを終えてからご参列の皆さまに質問をいたしました。

「皆さまのお家のご宗派は何宗でいらっしゃいますか?」と。
というのも御当家さま以外に同じ年頃のご親族さまが多かったからです。
御当家さまと同じ宗派ではないかという予想は外れ、ほぼ浄土真宗本願寺派でした。

それを受けておつとめの後での話を普段とは少し変えてみました。
お釈迦さまが説かれた多々あるみ教えはいずれも共通していることがあります、と。
それは、究極的に到達するべきところは覚りを得て仏と成ることをめざすこと、と。

ただ、そのめざすところに向かって歩む道が多々あるように説かれている、と。
人によって向き不向きもあるので人に応じて説かれたので多々あるのです、と。
だから、私たちは各々が善いと思う道を確かに歩んでゆくことが大切です、と。

そうした私たちの姿を亡き方がご覧くださったならご安心いただけますよ、と。
そして私たちをより善き方向に正しく歩めるように導いてくださいますよ、と。
私たちは亡き方に微笑んで見守り導いていただけるようにしたいものです、と。

おかげさまで私にとっても大変に有り難いご縁をいただけた年回法要でした。