清岸寺

  1. 慶長2年(1597)の開山

    知新集(浅野藩の資料)に「慶長2年(1597)周防国山口の晃誉廊傳上人が中嶋天神町に開山した」
    とありますが、唯一現存している過去帳も開基後80年間の記録がないために詳らかではありません。

  2. 第17世加用應信の晋山

    昭和16年(1941)、第16世住職松本徳明上人(ドイツボン大学教授)が東京で多忙のため、
    広島文理大学教授山本幹夫博士のお世話により、神戸の東極楽寺小林義道師の弟子であった
    加用應信(広島市白島九軒町の心行寺第14世柴田感純師の孫)が第17世として晋山しました。

  3. 建物強制疎開そして原爆投下

    昭和20年(1945)4月、建物強制疎開のため、縁をたよって心行寺に疎開しました。
    昭和20年(1945)8月6日の原爆により全て焼失しましたが、過去帳のみ残っています。

  4. 妙慶院と力を合わせていく

    紆余曲折を経て昭和25年(1950)4月、加用應信が妙慶院第23世住職を兼務し、
    妙慶院の場所で二ヶ寺の力を合わせて復興に尽力して今に至ります。

お寺の縁起

清岸寺 松碧山しょうはくざん 願生院がんしょういん 清岸寺せいがんじ

 知新集(浅野藩の資料)によれば、慶長2年(1597)周防国山口の晃誉廊傳が中嶋天神町に開山したとあるが、唯一現存している過去帳も開基後80年間の記録がないために詳らかではない。

 昭和16年(1941)、第16世住職松本徳明(ドイツボン大学教授)が東京で多忙のため、広島文理大学教授山本幹夫博士のお世話により、神戸の東極楽寺小林義道上人の弟子であった加用應信(広島市白島の心行寺第14世柴田感純の孫)が第17世として晋山した。

 昭和20年(1945)4月、建物強制疎開のため、兵隊が90坪の本堂をロープで倒したので、白島九軒町に疎開。仏像仏具なども心行寺に疎開していたが、昭和20年(1945)8月6日の原爆により本尊佛、宝物、古文書などの歴史的資料は全部焼失した。ただし土中に埋めてあった過去帳のみ、延寶7年(1679)正月より現在まで連続して残っている。

 原爆後、諦誉應信は妻の里から定時制高校(夜間部)に通勤し、昼間は焼け野原となった寺院の復興を窺っていた。広島市の分譲住宅に4度目で当選したものの、清岸寺の換地が未決定で困惑していたところ、昭和23年(1948)8月に換地が確定していた妙慶院の空地に10坪の小庵を新築した。

 昭和24年(1949)国民体育大会開催準備を迫られていた広島市西部復興事務所から、清岸寺の換地が決まらないまま百米道路の中にある墓石群を道路の緑地帯に仮移転せよとの無茶な通達があり、偶々少し空いていた妙慶院の墓地内に仮移転した。その後で換地が確定したが、広島市の予算不足でそのままとなった。こうした紆余曲折を経て昭和25年(1950)4月妙慶院を兼務した結果、妙慶院の場所で二ヶ寺の力を合わせて復興に尽力していった。(詳しくは妙慶院を参照)

 昭和41年(1966)5月、広島大学を卒業した長男に清岸寺住職を譲って妙慶院に転住した。昭和51年(1976)妙慶院和順講堂ビル建築工事期間中、清岸寺仮本堂に仮設プレハブをも増設して、法話会や法要を執り行って寺院の機能を補完した。現住職(第18世乗誉雅愛)も昭和55年(1980)より平成27年(2015)まで妙慶院住職を兼務しながら清岸寺の住職を務め、平成28年(2016)には住職在籍50年を迎えたが、いまだ清岸寺の本格的復興を窺っているところである。