妙慶院

  1. 福島正則公御母堂の菩提寺

    慶長5(1600)年、福島正則公が芸州と備後の太守として赴任した際、安芸郡尾長山にあった来迎寺を現在地に移し、
    御母堂様の法名より「妙慶」の二文字をとって妙慶院として菩提所に定めたことに由来します。

  2. 福島正則公の改易

    正則公奥方様が明智光秀妹というご縁から甥の増譽快應を開山に迎えました。
    しかし元和5(1619)年の正則公改易で広大な境内地は分割され、
    現在の戒善寺、元の正清院、海雲寺、源勝院、等覚院等が配されました。

  3. 原爆で灰燼に帰してからの復興

    昭和20年8月6日の原爆で本尊仏も過去帳も古文書も宝物もすべて灰燼となりました。
    数年は無住状態でしたが、先々代がお念仏のご縁により昭和25年に第23世住職に晋山し、昭和29年に木造本堂を新築しました。

  4. 都市型ビル寺院の先駆け

    戦後3度目の本堂建立に際し、都市型寺院の先駆けとなるビルのお寺が昭和52(1977)年竣工しました。
    原爆の焼け野原から復興させた先々代住職の献身の賜物で、寄附に頼らなくても維持できるお寺となりました。

お寺の縁起

妙慶院 海雲山かいうんざん 妙慶院みょうけいいん 来迎寺らいこうじ

知新集(浅野藩の資料)によると、慶長5年(1600)福島正則公が芸備両国の太守に任ぜられた際、安芸郡尾長山にあった来迎寺を現在地に移し、寺領二百石を寄付して菩提所と定めて、正則公母堂の法名より「妙慶」の二文字をとって妙慶院としたとある。

正則公の奥方は明智光秀の妹で、甥の増誉快應(光秀の遺児で、山崎の合戦の時僅か2歳)を住職として迎え妙慶院の開山とした。元和5年(1619)福島公改易、浅野入城後は、広大な境内地も数ヶ寺に分割され、普通の寺院となった。現在の戒善寺、正清院、海雲寺、昔あった源勝院、等覚院等の寺地は、みな妙慶院の境内に属していた。

その後も、寶暦8年(1758)、享和元年(1801)、慶應3年(1867)と幾度も罹災した上、昭和20年(1945)8月6日の原爆により、本尊佛、過去帳、古文書などの歴史的資料は何も残っていない。唯一原爆の爆風に耐えた正則公の母堂と妹の五輪の古墓2基のみ現存するが、昭和53年(1978)1月、広島市安佐町鈴張の楽土霊苑内合塔中央部に移転され丁重に祀られている。

原爆後は無住状態であったが、お念仏の縁により清岸寺第17世住職の加用應信が昭和23年(1946)8月、空地に10坪の小庵を新築して離散しかけていた檀信徒の掌握につとめた。妙慶院住職継承問題を解決した諦誉應信は、昭和25年4月より妙慶院第23世住職を兼務した。昭和29年10月に30坪の木造本堂を新築し、原爆ドーム横の西蓮寺から本通り商店街を稚児行列して華やかな入佛落慶式を挙行した。

昭和41年(1966)5月、諦誉應信が清岸寺から妙慶院へと転住し、昭和45年(1970)4月に定時制高校(夜間)を勤続25年で退職した。昭和52年(1977)4月、都市型寺院の先駆となる前面総ガラス張り陸屋根形式の鉄骨鉄筋コンクリート(SRC)造4階建ビルを建築した。(1階貸事務所、2階和順講堂、3階本堂・書院・納骨堂、4階庫裡、延面積2,762平米)。同年11月、中島町の清岸寺仮本堂より平和大通りを稚児行列して落慶式を挙行し、立派に再建復興を遂げた。昭和55年(1980)4月70歳で遷化、妙慶院復興への昼夜を問わぬ献身により「中興号」を下附された。

第23世住職の諦誉應信が遷化の後、遺弟の乗誉雅愛(清岸寺第18世住職)が昭和妙慶院第24世を兼務した。平成27年(2015)8月より、燈誉雅信(乗誉雅愛の弟子)が妙慶院第25世を継承して現在に至る。