戦後73年の一端の物語り
2019年7月4日(木)
学生の頃から毎夏のお盆にお参りしてきたお宅とのお別れでした。
このお宅にお住まいでいらした方が先ごろご往生されていまして。
ご親族の方からお仏壇の閉眼を頼まれておつとめしに伺いました。
このお宅にまつわる歴史を聴かせていただきましたので記します。
元々はNHK広島放送局がある辺りにお住まいでいらっしゃいました。
戦況の悪化を懸念して昭和20年4月に大手町から船越へ引っ越されたのです。
船越では山の上から呉が空襲されていくのをご覧になったそうです。
敵機が降下しているので墜落かと思ったら焼夷弾を投下していました。
焼夷弾により焼き尽くされる炎が船越からでも見て取れたのです。
呉にはお兄さんがいらしたのでお母さんと一緒に探すことにされました。
何とか石炭貨車に乗せてもらえたのですが途中のトンネルで煤のため真っ黒になりました。
幸いにもご無事だと分かったのですが服務中のため会わせてもらえず変えられたそうです。
昭和20年8月6日の朝は学校で先生の訓示を聞かれていました。
訓示が終わって移動していたときに原子爆弾が投下されました。
ピンク色の閃光が走るのも巨大なキノコ雲が浮かんでいくのもご覧になりました。
先生の許可で家に帰ったらガラス窓が爆風で壊れて床一面に飛び散っていました。
そこへ戻って来られたお母さんと一緒に突き刺さったガラス片を一つずつ抜いたそうです。
そうやって片付けないと家の中には入ることができなかったからでした。
そのうち広島市内から逃げてくる人たちが続々とやって来られるようになりました。
目と鼻と口のところだけ開けられた灰色の包帯で皮膚を覆われた人も運ばれてきました。
兵隊さんがそうした人たちを山のほうへ連れて行かれていたのだそうです。
翌昭和21年に平野町へ家を建てて皆さんで移ってこられました。
近所には他に1軒しかなくて当時は焼け野原越しに広島駅が見えていました。
少しずつ増築されましたが最盛期は親族10人がお住まいになっていたそうです。
それから73年の歳月が過ぎましたがご親族の方はずっとこの家に暮らされていました。
家の中には私が生まれるより前の昭和風情のモノがたくさんありました。
このたび伺ったときにはほとんどが姿を消してしまっていました。
ご親族の方は近所にお住まいがあるのでこの家に戻ってお住まいになることはありません。
令和元年にこの戦後最初期のお宅は主の後を追うように天寿を全うすることになります。
この窓から見える中庭もお仏壇の閉眼をおつとめした今回が見納めとなりました。
年に一度でも二十年以上もお参りしてきたお宅との別離も寂しいものですね。
諸行無常で形あるものが消えていっても記憶だけは留めていくことができます。
このご縁を少しでも残しておきたいと願いお話の一端をブログに書き記しました。