相手の立場に立った言葉がけをする
2025年10月15日(水)
先日の広島市仏教会による介護者カフェのとき
地元の中国新聞の記者さんが取材に来られて
毎週月曜連載の洗心欄に取りあげてくださいました。
吉岡俊昭先生が基調講演『絶対介護時代』で
先生ご自身が介護施設で働いていた体験談から
認知症への理解を深めてほしいと語ってくださり。
施設に入所している認知症のご家族と面会したとき
「誰か分かる?」と尋ねる人が少なくないけど
それは当事者を傷つけることを指摘されました。
認知症の方は記憶が曖昧だけど、思い出せない
辛さは感じていらっしゃるから「会いに来たよ」って
笑顔を見せてあげてね、と続けて語られました。
というエピソードが記事に載っていたのですが
今日ご一緒した方がこの記事を読んでいらして
「親に悪いことしていたなぁ」とおっしゃいました。
実は私も吉岡先生のこのエピソードを聞いたとき
もし私が面会に行って「あなたは誰?」と言われたら
次から「誰か分かる?」と尋ねそうだなぁと思いました。
普通に日常生活を送っているときは基本的に
自分がどう思うか、とか、自分がどう感じるか
という自分中心の目線でいることがほとんどです。
だから自分のことを分かっているかどうか怪しいと
「私が誰だか分かる?」と尋ねたくなってしまって
どうしても自分中心で言葉が出るんだろうと思います。
でももし自分が逆の立場で認知症だったとしたら
「分かる?」と聞かれたときに分からなかったら
恐らく哀しくて辛い気持ちになってしまうでしょう。
何でもその立場にならないと気づかないことが多いですが
吉岡先生の「誰か分かる?」より「会いに来たよ」というのは
相手へのやさしさや思いやりが感じられてステキですよね。
今回の記事のおかげでこのエピソードを思い返したし
今日ご一緒した方が感想を聞かせてくださったから
改めて相手を思いやる気持ちの大切さを再認識できました。
臨床仏教師として人と関わるときにもよくよく気をつけて
言葉を発するようにしなければ…と感じたご縁でした。